コラム

『ねぇ、死ぬかもしれないのに、どうして山に登るの?』

山に登る人ならきっと、一度はこんな質問をされた事があるんじゃないだろうか?

純粋な疑問として、あるいは一種の揶揄を込めた口調で。

この質問に答えるのは難しいけれど、僕なりにこのテーマについて思うことを少し書いていきたい。もしかするとこの先、主語が大きすぎる表現があるかもしれないけれど、そこは「〜という人もいる」くらいに読み替えていただきたい。

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登山における最悪の結果である「山の死」は、残念ながら毎年起きている。つい先日、動画配信をしながら冬富士登山をした方が、滑落し亡くなる事故があった。9月には、僕よりも年下の女の子が北アルプスで亡くなった。

僕も山が好きな1人として、山の死はとても悲しく心が痛い。そして最悪の結果になってしまった以上、その死を肯定する事は出来ない。だけど同時に僕は、死を否定する事も出来ない。ましてや故人を非難する声には違和感を感じるし、憤りすら覚える。

僕の祖父は山男だった。大学の山岳隊に所属し、何日も続く吹雪を共に生き抜いた仲間を失い、それでもなお山に登り続けていた。子供の頃の父と祖母を家に残し、海外の7,000m級未踏峰にも挑んだ。隊は雪崩で遭難し、祖父は生還したが、同隊の数名は帰らぬ人となった。

ー何故彼は山に登ったのだろう?

僕には分からなかった。いや、今も分からない。

冬富士にて

僕は高校まで「登山なんか微塵も興味ない」と言っていたはずが、気がつけば自分も山に登り、登山が好きになっていた。小さい頃から、「お爺ちゃんは山登りをしていたんだよ」「山は危ないところだよ」と言われてきた。それなのに何故、自分は山登りなんてするんだろう?危ないのに。家でのんびりしてた方が楽なのに…。

ー死ぬ為に登る?死んでもいいから登る?

―いや、きっと『生きる為に登る』だ。

 

山に登る人は様々いる。自然が好きな人、景色が好きな人、チャレンジをしている人。或いは、命を捨ててしまいそうな人もいるかもしれない。

でもきっと皆、自分の人生をより豊かにする為に登っているのだと思う。どんなに準備をしたって結果は分からないし、最悪の場合は死ぬのだけど。リスクと引き換えにしても(いや、ひょっとすると引き換えだからこそ)、得られる感覚があるんじゃないだろうか。

そういう場所だからこその美しさや、達成感や、命の感覚が。

 

それら全ては、みんな「自分が生きること」に繋がっている気がする。

自分の記憶に彩が加わるとか、人生の目標が出来るとか。もっと小さく、少し前を向けるようになるとか、週末の楽しみが出来るとかでもいい。全部 “自分がより良く生きるための一歩” だ。

登山というのは、一見矛盾した世界だとも思う。単なる死にたい人や生きることを捨てた人は、きっと山になんか登らない。どんな無謀な事をする人も、きっとその先の、自分の ”生” を見出したいんだと思う。

物理的な生命維持は、日本という国に生まれた幸運でかなり保障されていると思う。餓死や凍死、脱水死なんてまずしない。でも「生きる」って、そういうことだけじゃないはずだ。

その「そういうことだけじゃない何か」が、山登りな人もいる。

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話は少し変わるけど、今の世の中は「死に関する自由がない世界」だなと思う。

死ぬまでが、というか死ぬ事も含めて人生なんだから、死に関するあれこれをもっと自由に選べて良いんじゃないだろうか。どんな道に進むか?とか結婚するか?とかと同じように、その人の人生なんだから他人がとやかく言うのは止めようぜ、と。

こと「山の死」については、世間の風当たりが激しい。山は危ないという漠然とした固定観念のもと、好き勝手を言う人も少なくない。

さっき書いたように、僕は「生きる為に山に登る」のだと思う。そうやって生きる事に向かって一歩ずつ歩んだ人を、不幸な結果だけを取り上げて非難するのは、僕は許せない。

繰り返しだけど、僕は山の死を肯定しない。絶対に山で死んではいけないと思う。正当な注意を怠ったのなら、その登山者には責任がある。でもさ、死んでしまった人を頭ごなしに否定するのも、また違うんじゃないだろうか?

 

日常生活にも、予期せぬ死はつきまとう。事件・事故・急病のリスクを全て避けるのは不可能だ。そもそも死ぬことって、本来そんなに異常で特別なことじゃないはずだ。いつか分からないだけで、全員確実に死ぬのだし。

それを見て見ぬ振りして、山に登る人だけを異端視して、ああだこうだと言うのは残念な行為だと思う。自分のリスクを度外視する、自称山のベテランも同じく。

人には人の人生がある。痛みも苦しみも快楽も喜びも、その人にしか分からない。今読んでくださっているあなたは僕の感覚を知り得ないし、僕もあなたの感覚は分からない。

大事なのは、その『分からない部分に敬意を払う』ことじゃないだろうか。

みんな生きてりゃそれなりに辛い事だってある。そして受け止め方も人それぞれだ。でもきっと、山を歩く一歩が、それを乗り越える一歩に繋がるから、人は山に登るんじゃないのかな?

 

山に登る人も登らない人も、お互い敬意を持って向き合って、人格の否定ではなく行為の分析に目を向けられたら、きっともっと良い登山社会が出来るんじゃないかと思う。

1人の山好きとして、亡くなった方々の冥福を祈るとともに、その死が無駄にならない世界を祈る。

おわり

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